2014-02-26
不正選挙を取り上げないで、危険な兆候か煽るジャーナリスト達にも資金が分配されているのかどうかは知りませんが。
さて、当ブログは、一貫して、『親ユダヤ(ユダヤ人とレッテルを貼られた被害者)』『反ネオナチ』『非ユダヤ人陰謀論』の視点から、ものごとを見てきました。
筆者は、アンネフランクの家も行ったことがありますし、一家が住んでいた隠し部屋も見てきました。
ユダヤ人とレッテルを貼った人種を隔離して奴隷として酷使し、ナチスは戦争を行っていたわけで、これは、許しがたい犯罪なのは、誰の目にも明らかです。
当ブログは、ネオナチに断固反対します。
そして、アンネフランクが住んでいたアムステルダムのヨルダーン地区というのは、フレンドリーかつ落ち着いた場所で、素晴らしい場所であり、大好きなところです。
アンネフランクの家から数百メートルのあたりが、一番居心地の良いエリアですね。
アンネフランクを攻撃してもしょうがないのは明らか。
さて、では、ナチスに拉致されたアンネ・フランクの死因をご存知でしょうか?
以下引用
チフスにかかって病死した
アンネ・フランク
●かの有名なアンネ・フランクは、「アウシュヴィッツ収容所」で「ガス殺」されたと思い込んでいる人が、時たまいる。しかし、これは正しくない。
実際は、彼女はソ連軍の侵攻の前に「アウシュヴィッツ収容所」から「ベルゲン・ベルゼン収容所」に移送され、そこでチフスにかかって病死したのである。収容所がイギリス軍に解放される約2ヶ月前の1945年3月のことだった。(「ベルゲン・ベルゼン収容所」は絶滅収容所ではない)。
●アンネ一家4人のうち、アンネの母親はアウシュヴィッツで死んだ。アンネと姉の2人はベルゲン・ベルゼンに移送され、チフスにかかって病死した。父親のオットーは、アウシュヴィッツでチフスにかかったが、入院して回復。1980年にスイスのバーゼルで死ぬまで、91歳の寿命をまっとうした。
●現在、資料館になっている「ベルゲン・ベルゼン収容所」の入口には、アンネの写真とともに明確に彼女がチフスで亡くなったことが示されている。「ベルゲン・ベルゼン収容所」の資料センターの歴史家トーマス・ニーエは次のように語る。
「アンネがどの棟にいたか、正確にはわかっていない。アンネが死んだ3月、チフス感染で1万8000人が死んだ。死者は合計5万人、解放時の生存者は6万人だった。」
●アンネ一家からもわかるように、当時の収容所では発疹チフスが大流行していた。収容所の中には多くのシラミがいて、そのシラミが媒介となって発疹チフスが伝染し、弱っていた人びとを死に追いやっていった。アウシュヴィッツ以外の収容所でも、戦争末期には発疹チフスなどの感染症が多発し、それらの病原体を媒介するシラミの駆除が大問題になっていたのである。
『世界大百科事典』(平凡社)の「発疹チフス」の項目には、「シラミが寄生するような衛生状態の不良なところに流行が発生し、〈戦争熱〉〈飢饉熱〉〈刑務所熱〉〈船舶熱〉などの別名でも呼ばれた」とし、「第二次世界大戦でも発疹チフスは将兵をおそい、多くの日本軍兵士の命を奪った。さらにアウシュヴィッツなどのナチスの捕虜収容所でも大流行」したと書かれている。
●「ダッハウ収容所」から運よく生還したユダヤ人ソリー・ガノールは、この時の悲惨な体験を、著書『日本人に救われたユダヤ人の手記』(講談社)にまとめているが、「ナチとその追随者の次には、シラミこそが我々の第二の大敵にほかならなかった」という。
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