三重(四日市)女子中学生殺害事件と不正選挙 犯行現場は、12.16衆院選で選挙管理委員会委員長を務めた故伊藤忠治の地元で東芝の城下町
2014-03-05


三重(四日市)女子中学生殺害事件で、容疑者が捕まったそうですが、また少年ということで、スピンでしょうね、。


前に、こんな記事書きましたので再掲載。



12.16不正選挙衆院選で選挙管理委員会委員長を務めた、伊藤忠治元衆議院議員が食道癌で亡くなっていた!!
[URL]


不正選挙が明らかな、12.16衆院選で選挙管理委員会委員長を務めたのは、NTT労組出身の社会党議員の伊藤 忠治


実は、この伊藤 忠治氏は、今年(2013年)5月19日に食道癌のため津市の病院で死去しています。79歳没。

以下引用

伊藤 忠治氏(いとう・ちゅうじ=元衆院議員)19日、食道がんのため死去、79歳。連絡先は民主党三重県総支部連合会。告別式は22日午後1時から津市高茶屋小森町2786のシティホール津ベルコ会館。喪主は長男、賢俊氏。

 1983年に日本社会党から旧三重1区で出馬し初当選、その後民主党に移り6期務めた。
以上引用
nikkei.com/article/DGXNASDG2001P_Q3A520C1CC0000/


口封じですね。ポロニウム
食道癌というのが、いかにも口封じ



伊藤 忠治(いとう ちゅうじ、1934年(昭和9年)5月2日 - 2013年(平成25年)5月19日)は、日本の政治家。元衆議院議員(6期)。中央選挙管理会委員長。初当選時には全電通労組(全国電気通信労働組合)出身で支持母体としており、電電公社民営化後は、NTT労組を中心とする通信系労組である情報労連(情報産業労働組合連合会)を支持母体としていた。


三重県津市北丸之内出身。1934年(昭和9年)に三重県津市の自営業者(家具製造業)の家庭に生まれた。しかし父は事業に失敗して、伊藤家は貧困家庭となり働かざるをえなくなる。
15歳で地元の中学を卒業後、印刷会社に就職した。自身で働いて稼いだ学費で高校に通学する事として、1950年(昭和25年)に津市高等学校(三重県立津商業高等学校の前身)の夜学(定時制課程)を受験した。その後の三重県立津実業高等学校(三重県立みえ夢学園高等学校の前身)定時制普通科に入学をした。津実業高等学校の第2学年の途中に鈴鹿市白子にあった職業学校である鈴鹿電気通信学園(電気通信省が設立した企業内学校)にも通い、1952年(昭和27年)日本電信電話公社に入社した。1955年(昭和30年)に三重県立津実業高等学校を卒業をする。さらに、公務員として社会科学の分野である政治学・経済学・法律学の知識と学歴をつける必要性から、1957年(昭和32年度)に津市立三重短期大学法経科2部(法経学科夜間学部5期生)として卒業する。

1972年 (昭和47年)に全電通中央本部の執行委員となる。
1978年 (昭和53年)に全電通の三重県支部の委員長となる。
三重県労働協議会副議長や三重県公務員労働協議会事務局長を務める。[1]
1983年 (昭和58年)に急死した田口一男の後継として、日本社会党員となっていた49才の時に、日本社会党から(中選挙区制)旧三重1区選出で衆議院議員に初当選をする。以後連続3回当選をする。
→1983年(昭和58年)の第37回衆議院議員総選挙で1期目の当選をする。
→1986年(昭和61年)の第38回衆議院議員総選挙(社会民主連合の推薦候補)で2期目の当選をする。
→1990年(平成2年)第39回衆議院議員総選挙(社会民主連合の推薦候補)で3期目の当選をする。その内2回がトップ当選であり、日本社会党副書記長を務めた。
日本社会党の企画調査局長に就任する。
日本社会党三重県連合本部の委員長に就任する。
三重県社会文化協会の理事長となる。
田辺誠委員長から日本社会党の中央執行委員会の改革委員に起用される。
1993年(平成5年)の第40回衆議院議員選挙(社会民主連合の推薦候補)で落選をする。
リベラル勢力の結集を目指して、「民主党三重」を旗揚げする。1997年(平成9年)に四日市市中部地区の近鉄四日市駅付近のホテルで民主党三重の設立パーティーを実施した。

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