実は、1997年3月11日にも原発事故があった。
この事故について詳しく書かれたHPがある。
以下引用
■日本の原子力史上、最悪の事故
1997年3月11日、茨城県東海村にある動燃再処理工場で爆発事故が発生した。敷地の外にまでプルトニウムなど長寿命の放射能を含めて放出された可能性が高く、その種類、量を正確に把握できないという深刻な事態になってしまった。
再処理工場は、原発の使用済み核燃料からプルトニウムや燃え残りのウランを死の灰と分離して取り出す化学工場である。燃料棒の中に封じ込められていた放射能を取り出して溶剤や硝酸などにより処理を行うので、普段から放出される放射能量も事故の危険性も、原発に比べて格段に高い。
今回事故を起こしたのは、低レベル放射性廃液をアスファルトと混ぜてドラム缶詰めにする施設であるが、「低レベル」といっても再処理工場での危険性は大きなものがある。これがもし仮に死の灰などを扱う中心部での爆発事故であったなら、被害はチェルノブイリを凌ぐものになっていただろう。
■事故を拡大した動燃の杜撰な対応
事故当日何があったのか、動燃の発表が二転三転するため、検証が難しいが追ってみよう。事故は午前中の「火災事故」と夜の爆発事故からなる。
午前10時6分頃警報が鳴り、2分後に低レベル放射能とアスファルトを詰めたドラム缶が燃えているのが確認された。現場の判断で行うべき消火作業を動燃職員の指示を仰いだ後、スプリンクラーを約1分間手動で作動させ、10時22分に消火したとされている。10数分間燃えるにまかせていたわけだ。わずか約1分間の放水だけでは消火が不十分であったことは間違いない。
この最初の段階で事故現場の「アスファルト充てん室」から放射能漏れが始まっており、1回目の爆発があったという説もある。真相究明が望まれる。
10時18分にはアスファルト充てん室を負圧に保つ空調がフィルターの目詰まりから止まり、放射能漏れが拡大していった。作業員に避難命令が出され、外部への放射能放出も検出されていたのもかかわらず十分な確認を怠り、「放射能漏れはない」との発表がなされる。
爆発にいたるまで火災報知器はスイッチを切ったままであった可能性が高く、1つしかない温度計も構造上の欠陥から測定できなくなっていた。当初消防職員に最初の火災の鎮火を確認してもらったと発表していたが、火災発生から3時間半後の午後1時34分から火元の周辺を見て回った消防職員ものぞき窓が真っ暗で何も見えなかったと証言している。この段階での対応がもっと適切であれば、外部への多量の放射能放出は防げたかもしれないだけに、動燃の責任は大きい。
高温になったアスファルトは可燃性ガスを発生する。空調が止まっているためガスは充満、午後8時4分頃に大規模な爆発に至った。鉄性のハッチや扉も吹き飛ばす凄まじい爆発は、多量の放射能を外部へ吹き飛ばした。
以上引用終わり。 全文は [URL]
最近、毎日茨城県の放射能についてモニタリングポストを見ているのだが、茨城県の放射能は、福島第一原発と関係無いところで高くなっているところ、ありますよね。。 その原因について、是非記者さん達には探っていただきたいのですが、それはともかく、これが1997年の311原発事故です。
ちなみに、1997年にアジア経済危機が起きて世界経済は転換期を迎えました。
以下は広瀬隆が書いている原発と軍の関係である。
以下引用
第6章 日本最大の官僚組織・電力会社と軍需工場・三菱重工
知られざるプルトニウムの軍事利用計画
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