誰でも逮捕可能な児童ポルノ法を操るユニセフとモンサント、そして様々な事件
2014-06-19


「子供の人権が」とか「女性の人権が」と、正義の味方のふりをした『セーブザチルドレン』の理事が、誰でも逮捕出来る児童ポルノ法単純所持規制制定に暗躍し、大量破壊兵器があると嘘をついて他国を爆撃するのを支持。侵略軍である米国海兵隊を世界中に展開しろと言っている。

そして、その復興利権で儲ける悪徳企業を支援している。


誰でも逮捕可能な児童ポルノ法改正案参院も通過 その裏側を詳細分析 ―
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のつづき


以下は、現在の日本ユニセフ協会の会長

赤松 良子(あかまつ りょうこ、1929年(昭和4年)8月24日 - )は、日本の労働官僚、外交官、政治家。勲等は旭日大綬章。財団法人日本ユニセフ協会会長。筆名は青杉 優子。在ウルグアイ大使、文部大臣を歴任した。

概要
労働省婦人局長時代、男女雇用機会均等法制定の中核となった。細川護熙、羽田孜両内閣で文部大臣を務めた。


来歴
生い立ち
1929年(昭和4年)8月24日大阪市天王寺区に赤松麟作、浅香夫妻の二女として生まれる。父・赤松麟作は、黒田清輝に師事し、関西西洋画壇の大家となった人物。弟子に佐伯祐三らがいる。赤松夫妻は二人とも再婚で、麟作は先妻との間に五男一女がいた。良子がうまれたとき麟作51歳、浅香40歳と高齢出産であったため、出産は当時としては珍しく大阪赤十字病院で行われた。麟作は良子を溺愛し、1934年(昭和9年)に「良子」という作品を描いている。
1936年(昭和11年)大阪市天王寺第五尋常小学校に入学。1942年(昭和17年)大阪府立夕陽丘高等女学校(のち大阪府立夕陽丘高等学校)に入学。終戦の混乱の中、1946年(昭和21年)高等女学校を卒業し、神戸女学院専門学校に入学するが肺門浸潤で休学(のち退学)を余儀なくされた。1947年(昭和22年)に上京し、津田塾専門学校英語学科(旧制)に進学する。1950年(昭和25年)3月同英文学科(新制)を卒業し、同年4月東京大学法学部政治学科に入学。1953年(昭和28年)に卒業する。


労働省時代
東大在学中、国家公務員6級試験に合格し、労働省に入省、婦人少年局婦人課に配属される。11月に花見忠(後、上智大学教授)と結婚。愛娘の自立を見届けたかのように父が死去。
赤松が配属された婦人少年局には、局長の藤田たき(津田塾教授)を始め、課長田中寿美子(後、参議院議員)、高橋展子(デンマーク大使)、森山真弓(環境庁長官、内閣官房長官、文相、法相)ら錚々たる顔ぶれがそろっていた。
出産・育児に加え、仕事面でも男性キャリアと比較して昇進が遅いなど雌伏の時を過ごす。1958年(昭和33年)入省5年目にして埼玉労働基準局に転任。1960年(昭和35年)、本省に戻り職業安定局労働市場調査課勤務。1963年(昭和38年)、国際連合フェローシップ試験に合格し渡米する。帰国後、婦人少年局婦人労働課課長補佐となる。1966年(昭和41年)青杉優子の筆名で住友セメント事件に関する論文を発表。
1968年(昭和43年)群馬労働基準局労災課長を経て、本省婦人労働課長補佐、婦人課長、婦人労働課長を歴任。婦人労働課長時代、勤労婦人福祉法立案に際し、育児休業制度を盛り込む。1975年(昭和50年)、女性で初めて山梨労働基準局長に就任。
1979年(昭和54年)、国連日本政府代表部公使に任命される。国連公使として女子差別撤廃条約に賛成の投票を行う。同条約に署名したことで日本は国内法整備が課題となった。1982年(昭和57年)、労働省婦人少年局長に就任し、男女雇用機会均等法の立案に当たる。翌1983年(昭和58年)労働省の組織改編に伴い、初代婦人局長に就任。1985年(昭和60年)男女雇用機会均等法が制定される。
1986年(昭和61年)駐ウルグアイ大使に任命される。1989年(昭和63年)に帰国し、女性職業財団会長、国際女性の地位教会会長、文京女子大学教授などの職を務める。

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