ランド研究所を設立したのは、東京大空襲や広島・長崎原爆投下を指揮したヘンリー・アーノルド空軍元帥
2015-03-07


1934年7月、8月アーノルドはマーティンB-10爆撃機の編隊を組んで率いてワシントンからアラスカ州フェアバンクスまでの往復飛行記録を達成した。この功績から1935年2回目のマッキー・トロフィーを受賞する。1935年2月アーノルドは2つ飛び級で准将に昇進。カリフォルニア州マーチフィールド航空総司令部第一飛行隊の指導を行う。ここでのアーノルドは爆撃男として有名になる。B17、B24の開発を推進し、乗組員の訓練にも励んだ。1936年1月ワシントン航空隊副司令官に着任。1938年9月29日少将昇進。同航空隊司令官に着任[6]。


陸軍航空軍司令官
1941年6月30日アーノルドの所属がアメリカ陸軍航空軍 (Army Air Force)に変更される。12月中将に昇進。1942年3月アメリカ合衆国陸軍省( the War Department General Staff )が組織された際にアーノルドはアメリカ陸軍航空軍司令官に任命された。第二次世界大戦ではドイツと日本に対して航空作戦を指導した。3月大将に昇進[7]。1944年12月21日陸軍元帥に一時的に昇進。


日本本土空襲
1943年8月27日アーノルドは日本敗北のための空戦計画を提出する。日本都市産業地域への大規模で継続的な爆撃を主張した。焼夷弾の使用に関しても言及されていた[8]。アーノルドは科学研究開発局長官ヴァネヴァー・ブッシュから「焼夷攻撃の決定の人道的側面については高レベルで行われなければならない」と言われていたが、アーノルドが上層部へ計画決定要請を行った記録はない[9]。
アーノルドは第二次世界大戦末期に日本本土爆撃を開始する。終戦をキーワードに空襲を人道的な攻撃として説いていた。国防総省首席研究官ジョン・ヒューストンによれば、アーノルドにとって東京空襲自体は重要なことではなく、空爆がいかに戦争終結に役立ったかを見せつけることが重要で理由は独立空軍の悲願を達成するためにB29の活躍で戦争を終結させたかったからだという[10]。ドレスデン爆撃の非人道性が問題になった際にアーノルドは「ソフトになってはいけない。戦争は破壊的でなければならず、ある程度まで非人道的で残酷でなければならない」と言った[11]。
アーノルドは日本本土爆撃を実行する司令に着任したヘイウッド・ハンセル准将に対し「B29の狙いは大量の爆弾を搭載量しはるか遠くに運ぶ能力という攻撃力にある。しかし現時点この爆撃機性能をいかした攻撃が実行できていない。わが軍で最も優れた部隊の1つを君に任せればB29いかして打ちのめすと信じる」と書簡を送った。ハンセルは1944年11月23日から出撃命令を出すが、マリアナ基地の未完と天候に恵まれず戦果を上げることができなかった[12]。 アーノルドはヘイウッド・ハンセル准将の後任にカーチス・ルメイ少将を抜擢する。中国で行ったルメイの高い精度の精密爆撃の腕を買ったためであった。アーノルドは1944年11月13日の時点でルメイの異動は検討していた[13]。1944年12月9日ルメイに対して「B29ならどんな飛行機も成し遂げられなかったすばらしい爆撃を遂行できると思っていたがあなたこそそれを実証できる人間だ」と手紙を送った。アーノルドは中国からのB29の爆撃をやめさせてその部隊をマリアナに合流させると1945年1月20日ルメイを司令官に任命した。戦後ハンセルは自分の罷免は精密爆撃から無差別爆撃への政策転換の結果と話したが、実際はハンセルのころから無差別爆撃の準備を進めており、実験的に実行もしており、無差別爆撃の方針についてルメイは基本的にハンセルの戦術を踏襲している[14]。

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