本日は長崎原爆投下から70年、決して忘れてはならない日です。
以前のエントリですが、ずっと気になっていて調べていました。
以下ダイジェスト
広島原爆投下と抗がん剤開発 その1 なぜ原爆の被爆被害の調査は、『ABCC調査』だったのか?
[URL]
広島原爆投下の翌日に、GM(ゼネラルモータース)の社長が、アメリカで初めての癌研究所を設立 。世界初の抗がん剤『ナイトロジェンマスタード』を生み出した
ナイトロジェンマスタードという抗癌剤については、
参考記事
抗ガン剤は化学兵器『マスタードガス』だった!!放射能と癌とips細胞 ―
[URL]
原爆のどさくさに紛れて、人体実験していたのではないか?
原爆症の症状と抗がん剤ナイトロジェンマスタードの副作用は、ほとんど同じなのです。
そして、その根拠として、広島の爆心地から遠くない広島の沖合に、毒ガス工場があった。
そこに、最初の抗がん剤となったイペリットガス(マスタードガス)1,451トンがあったのです。
中略
終戦後、GHQ(主にイギリス連邦占領軍のオーストラリア軍)や政府により施設解体や残された化学兵器の処分が、周辺海域への海洋投棄、火炎放射器による焼却、島内での地中処分といった方法で行われ、除毒措置も施された。
とあります。
米軍は捨ててないということですよね。
米軍が関与したものは、ケタリング達の実験台になったと考えるのが自然でしょう。
以上引用
さて、ABCC調査に関する文献を読むと、原爆被害者に対する治療は行われなかった。と書いてあります。
でも、医者の元には連れて行かれたと。
そして詳細は、はっきりとは分からないとある。
ABCCでは、軍の追跡調査なわけですから、治療を行わずに観察し、原爆投下の後、人々がどのようになっていったのかを観察していた。それが軍の利益に適っていた。
だから治療は行われず、観察が行われたいた。
これが、通説です。
この話に論理的な矛盾点はありません。
しかし、その中で、GMのスローン・ケタリング研究所は、実際に世界初の抗がん剤『ナイトロジェンマスタード』を開発しているのです。
そして、その材料は、広島に確かに存在していた。
このことをどう考えるのか?
そのヒントがありました。
それは、ゼネラルモータースGMは、反トラスト法で手放すまでは、原爆を開発したデュポン社の子会社であったということです。
GMとデュポンというのが今まで結びつかなかった。
あまりにも全然違うメーカーなので。。
デュポン
創業は1802年。資本金は111億3600万USドル。創業者はフランス出身のユグノー(プロテスタント)でエミグレ(フランス革命後に国外へ逃亡した人々)であるエルテール・イレネー・デュポン ( 1771-1834) 。メロン財閥、ロックフェラー財閥と並ぶアメリカの三大財閥
wiki
以下HPから要点を抜粋すると
社長のピエール・S・デュポンと共同で1914年2月初旬、GM社を買収。翌15年にはピエール・デュポンがGM社の 取締役に迎えられている。
デュポンは、第一次世界大戦を通じて巨大になり、1918年には総売上高は3億 2,900万ドルと、1915年の7倍以上になった。
デュポン社財務委員会は、1918年1月、ゼネラルモーターズ社(以下GM社)への 2,500万ドルの投資を承認
GM社の再生プランを唱えたのは、副社長のアルフレッド・P・スローン・ジュニアだった。
GM社の取締役会はスローンの組織再編計画を批准し、1920年12月29日より実施した。
2.dupont.com/DuPont_Home/ja_JP/history/history_04a.html
とあります。
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