アメリカ先住民虐殺の歴史とアジアの戦争を繋ぐものとは?
2016-05-24


1602年、英国での国教会の迫害から逃れ、北アメリカのプリマスに入植したピューリタン(清教徒)は、インディアンと平和交渉を結び平和に共存しようとした。そして、インディアンへの伝道を試みた。厳格なニュー・イングランド・ピューリタニズムの人々はマサチューセッツ、コネチカット、ニューヨークに伝道会社を設立して、インディアンへの伝道を行った。

筆者注(この記述は大嘘です。ピューリタンは、助けてくれたワンパノアグ族をはじめとしたアメリカ先住民を大虐殺し、追放しています。アメリカ独立の時には、そこに居たほぼ全ての先住民を追放するか、虐殺するか、奴隷にして売り飛ばしています。)

『感謝祭』の元になった最初の英国人入植者を救ったアメリカ先住民達を滅亡させた黒過ぎるアメリカの歴史
[URL]

アメリカ独立戦争当時の陸軍長官が、我々の植民は、先住民の絶滅作戦だったと書いている
[URL]

万能薬として売りまくったアヘン入りワインのトマス・シデナムもピューリタン
[URL]
も参考に

以上筆者注意

以下引用つづきます

19世紀にマサチューセッツ州西北部にあるウィリアムズ大学の学生が、伝道について話しながら歩いていると、突然の雷雨に襲われて、納屋に避難して干草の上に座りながら話を続けた。納屋を出るときに自分たちが海外伝道に従事することを決意した(ヘイ・スタック運動)。 彼らは、ウィリアムズ大学を1806年に卒業、続いてアンドーヴァー神学校に入学して、宣教師になる訓練を積んでいた、1810年にマサチューセッツ会衆派教会牧師会が開催され、その時、その神学生たちはインディアン伝道だけではなく、インド伝道を志す決意を述べた。その、熱意に同意した牧師たちが、同年6月にアメリカン・ボード(American Board of Commissioners for Foreigb Mission)を設立した。

1870年頃になると、長老派、バプテスト派、オランダ改革派、ドイツ改革派教会などが離脱し、実際上は会衆派のみの外国宣教機関になった。[1]

年譜
1810年アメリカ合衆国で会衆派教会によって設立された。
1869年D・C・グリーン宣教師を神戸に派遣する。
1871年ディヴィス宣教師を派遣する。
1874年新島襄が帰国して、グリーンやディヴィスらと共に1875年に同志社を開校する。その設立の際にはアメリカン・ボードが援助をした。やがて、アメリカン・ボードの教会に同志社を卒業した伝道者が加わった。
1886年日本組合基督教会の設立に協力した。

主な所属宣教師
D・C・グリーン(1869年)
O・H・ギューリック(1871年)
J.D.デイヴィス(1871年)
M・L・ゴードン(1872年)
J・L・アッキンソン(1873年)
E・タルカット(1873年)
新島襄(1874年)
J・H・デフォレスト(1874年)
J・T・ギューリック(1875年)
J・ダッドレー(1875年)
D・W・ラーネッド(1876年)
G・M・ローランド(1880年)
E・L・コー
S・L・ギューリック(1887年)

以上引用


会衆派っていうと、ブッシュやヒラリーと同じイェール大学ですね。

イェール大学は、最初のピューリタン神学校であるハーバード大学がリベラルになりすぎたために作った神学校なのだそうです。
目的は一緒でしょうね。

詳しくは
アメリカ先住民の民族浄化とハーバード大学 STAP細胞
[URL]



L.L.ジェーンズって誰??

L.L.ジェーンズとは 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
リロイ・ランシング・ジェーンズ(Leroy Lansing Janes, 1837年 - 1909年)は米陸軍の軍人。退役後は日本で、熊本洋学校を設立して、熊本バンドの礎を築いた。
生涯

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